アスンシオンカワムラ新聞

パラグアイで整体治療に携わっています。日々思ったことを綴ります。

聖週間に山口社長を回想する

 NHK で「さかなクン」の番組を観ていたら、昔の魚屋時代を思い出した。あれは二十代後半に積んだ貴重な体験だった。
 おかげでその後多少の困難にぶつかっても「あの時頑張れたのだから、今回も何とかなる筈だ」というポジティブ思考を身に付けられたのは大きな財産だ。
 
 1991年6月山口商店で働き始めたのは、高校時代の柔道部の友人山口君のツテである。彼の父君が鮮魚仲卸業をしており、「昼十二時までに終わる仕事やし、会社のマンションが空いているので住んだらどうや」と誘われたのだ。
 パラグアイでの協力隊活動が終わり、結婚を間近に控えていたが無職、もとい就活中だった。

 早朝四時出勤も苦にならなかったし、適度な肉体労働は軽めのストレッチのような感じで、体調は最高だった。兎に角がむしゃらに働いたものである。
 私を信じてパラグアイからいきなり京都丹波口のプロレタリアート御用達マンションへやって来た妻の為にも頑張らねばと、気合いも入っていたのだろう。

 

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Río Paraguay (Ypané)

 
 さて職場には K という古参がいたが、社長のいるところといないところでは、ガラッと態度を変える男であった。「ええかお前、親方の見てへんとこでは手抜きせなあかんで。わしの立場があらへんさかいな」と言うので、思わずそいつの顔を見直した。

 お前呼ばわりされたのもカチンときたが、それより「こんな天然記念物もののクズがいるのか」という驚きだ。自分はエリート意識など持っていないが、昔から下衆野郎が虫酸が走るほど嫌いなのである。

 可能な限り K と接することを避けていたが、ある日理不尽な言いがかりをつけられた。一方が他方に嫌悪感を持つと当然相手も気づくので、奴も私に我慢できなかったのだろう。
 つまり起こるべくして起こった衝突ではあるが٠٠٠٠٠「売り言葉に買い言葉」反射的に野郎の襟首を掴んでパラペット(手すり壁)まで引きずっていった。中央市場の三階屋上駐車場だった。

 上から突き落とすと十中八九死ぬ。流石にそれは避けないと小生がお縄を頂戴する事になるので、落とすふりをして恐怖を味あわせてやろうと思ったのだ。
 それでも腹の虫が収まらなかったので、張り手一発かまして放免してやった。

 大人になってから赤の他人に肉体的被害を加えたのは、後にも先にもこの時だけである。武勇伝でも何でもない不愉快な出来事だ。

 ただ時と場合によっては売られた喧嘩は買わねばならないと思う。狂犬は噛みつかれる前に蹴飛ばしてやろう。

 その日の夕方社長が自宅へやって来た。てっきり怒られるかと思ったが「河村君ようやった。K は昔から素行が悪く問題あるんや。朝の件は気にせんでええで」と。
 元より気にしていないが、社長は私が仕事を辞めるのではないかと心配したのだと思う。私はそんなナイーブな性格ではありません。


 もう一つ、初めてボーナスを貰った時中身をチェックしてから「これは間違いではありませんか」と社長に直訴(?)したことがあった。
 自分が勝手に予想していた金額と異なり、本当に何かの手違いかと思ったのだ(笑)。「それで間違いないんやけどな」と言われてガックリして事務所を出たら、後から社長が追いかけてきて「他の従業員には黙っといてな」五万円上乗せしてもらった。

 映画『ロッキー』で冷たかった老コーチの申し出を断りアパートから追い出したロッキーが、その後直ぐ彼を許して再びコーチとして受け入れるシーンがあるが、この箇所を観る度に上記エピソードを思い出すのだ。

 社長の立場からすれば、こんな従業員(私)を抱えて頭が痛かっただろうなと、今になって思うが。
 

 最後に社長にお会いしたのは、十年以上前に市場を再訪した時だ。「河村君は昌則(友人の名)の友達やったけど、わしの息子みたいなもんや」と言われたことをよく覚えている。

 京都での四年間妻共々本当にお世話になったのだ。

 山口明男社長その節はありがとうございました。南米パラグアイより益々の御健康をお祈り申し上げます。

 河村真作


 先週末から再び外出制限となったパラグアイ(泣)。折からの聖週間(セマナサンタ)と重なり、街は長閑過ぎるほど静かである。