アスンシオンカワムラ新聞

パラグアイで整体治療に携わっています。日々思ったことを綴ります。

肉は硬かったが、(色々な意味で)良かったこと

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Av. Santísima Trinidad
 妻とショッピングセンター内にあるステーキ店へ行った。

 ブエノスアイレスにある有名な肉料理レストランのフランチャイズ店舗として、アスンシオンにオープンしたのは6~7年前の事だったと思う。ここは二号店である。
 コロナ以前は、週末は予約が取れないほど流行っていたものだ。


 ビッフェ・デ・チョリソ(サーロインステーキ) 400グラムを注文。焼き具合はミディアムで頼んだ。
 待つことしばし20分、肉塊が目の前にどんと置かれたが、パッと見てヤバいなと思った。食欲が余りそそられないのだ。何故か? 

 それは肉から湯気が全く出ていなかったからである。正しく肉が死んだ状態であった(勿論とうに死んでいるのだが)。さて。

 ①先ず肉の真ん中にフォークを突き刺し、ナイフで切ろうとすると、必要以上の力がいる。即ちこれは硬い。ガクッときた。
 ②塩が効いてなかった。焼く前に塩を振らない肉は、醤油をつけない刺身のようにまずいものである。

 ①をクリアできなかったのは、百歩譲るとしても、②の減点ポイントは痛い。肉を売りにしている店にしては、大きな失態だと個人的には思う。
 自分の描くアサード(南米風焼き肉)とはこうあるべきというイメージと、余りにもかけ離れていたので、悲しくなった。


  これは苦情を言わねばと思ったが、結局は言わなかった。それは2つの理由による。

 一つは、周りのテーブルを見渡すと、皆さん、つらいことも忘れて楽しそうに食事をしている。依然としてコロナ禍にはあるが、少しは頭から離そう。
 その光景に懐かしいようなちょっと神々しい(?)感覚さえ覚えた。 去年まではそれは日常生活の一部だったなあと感慨にふけてしまったのである。
 それでこの貴重な瞬間(とき)を、肉が硬いとか冷めているとか、取るに足らない問題で、一石を投じて(流れを)断ち切りたくないなと思ったのだ。
 
 もう一つは、一人で食べているならまだしも、家族や友人と会食をしている場合、一人が顔を真っ赤にして料理にけちをつけると、他の者をも白けさせてしまうことが往々にしてある。
 数ヵ月ぶりの妻との外食で、この事態も避けたかったからである。

 かと言って硬くて冷めた肉を、めそめそ泣きながら食べなければならない筋合いもないので、ウエイターを呼び「もう一度肉を温めてもらえるかな。少し冷めているよ」と言った。

 温めたら幾分ましになった。

 インスタ映えする写真を撮ろうと思っていたが、コロッと忘れてしまった。でも貴重な瞬間を過ごせたので、良しとしよう。

 『生ビールとフライドポテト』だけが、やけに旨かった。


 『幸せを得られるかどうかは、思考の質に左右される。それゆえ適宜注意を払い、悪辣で無分別な考えにおぼれる事がないようにしなければならない』マルクス・アウレリアス