アスンシオンカワムラ新聞

パラグアイで整体治療に携わっています。日々思ったことを綴ります。

あれから一年

あれから一年経った。

去年の十月頃、父が入院したと連絡があった。その3か月に日本で再会した時は元気だったのに、母が言うにはかなり深刻な容態であるらしい。その父が病床で小生に会いたいとポツンと漏らしたとのこと。
それで取るものも取りあえず日本へ行ったのである。


ブラジルから北米へ向かう飛行機はかなり揺れた。

機内持ち込みのかばんが濡れているのに気づいたのは、サンパウロを離陸してから5~6時間、本を取り出そうと頭上の荷物棚を開けた時だった。
臭うと腐ったチーズか何かのような悪臭がある。以前ブエノスアイレスでひっかけられたケチャップ強盗のあの臭さに勝るとも劣らないレベルで、それを思い出したら腹が立ってきた。

その出所は同じ荷物棚の中にあった袋からで、隣席のご婦人のものだった。水のようなものがそこから染み出て、当方のかばんにまで流れてきていた。彼女曰く、米国に住んでいる娘に届けようと、昨夜必死で作った自家製チーズが溶けたようだとのこと。

セニョーラのファミリーヒストリーは一先ず置いといて、こっちはかばんを汚されたので、「こういうモノをしっかり包まず機内持ち込みにするのは、非常識過ぎますよ」と言った。彼女もヤバいことをしたと思ったのか、私のかばんをティッシュで拭いてくれるのだが、少々拭いて取れるような生易しい臭いではない。

でもまあこの人も自分のチーズが流れ出すとは予想しなかっただろうし、若しくはそういった可能性に全く気が回らない人間だったのかも知れない。どうも後者のタイプのようだが。こういう相手に文句を言ったところで、暖簾に腕押しである。
そこで「もう結構です」と不毛な会話は止め読書に専念した。と言いたいところだが、やはり専念できなかったよ(泣)。


羽田に着いてさあこれから山口行きの国内線に乗ると電話したら、昨夜父が永眠したのだと告げられた。よく小説やドラマなどで足元からへなへなと崩れ落ちるシーンがあるが、本当に足が鉛のように重くなり、力がくたっと抜けるものだ。

山口宇部空港から防府の火葬場まで車で直行したが、焼き場のスケジュールの都合やら何たらで、既に親父は荼毘に付した後だった。


親の死に目に会えなかったが•••例え利己的と受け止められようとも•••自分はこの事実を冷静に受け入れるしかないと思う。
パラグアイに住んでいるのだから、いつかこういう日は来るだろうとは想定していた。だからこそ普段から一期一会の気持ちを大切にしようと切に願うのだ。


後から気付いたが、親父の亡くなった時刻と、飛行機の中でおばさんと例のチーズでやりあっていた時間が、ほぼ一致していた。
小生超心理現象とか誰々のお告げとかそういった類いのものは、あまり信じないが、あれは「つまらぬことに(他人のミスにいちいち腹を立てたり)自分の時間を無駄づかいするのはもったいない。」という親父からのメッセージと思えなくもない。


『もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?』スティーブ•ジョブズ



昭和37年 (1962年)  父と小生 京都にて

人生について考えること

パラグアイのアスンシオンで、整体院を開業したのが1995年。

紆余曲折を経ながらも30年この仕事一筋でやってきたことは—それも文化も国民性も異なる南米パラグアイで—感慨深いものだ。

小生一旦こうと決めたら、なかなか途中では諦めない性格だが、その反面嫌なことはすぐやめるので、要するに"パラグアイの地で整体師をする"のが、向いていたのだろう。
勿論妻をはじめ家族、友人そしてこれまでに関わった人々の協力や応援があったからこそ成しえたのは言うまでもない。

ありがとうパラグアイ。ありがとう皆さん。

Hohenau, Itapúa


30~40代の頃は1日に8人から10人の患者を診ていたが、最近はそれだけの人数をこなすと、翌日も疲れが残りこちらが消耗してしまう。

そのため治療人数を制限した。午前中に患者2人を診て、午後からも患者2人の計4人までで、それ以上は悪いが、次の日以降に来てもらっている。このくらいのペースだと自分も疲れることなく治療に集中できるのだ。
いかに体調管理を心掛けても、体力の衰えは加齢と共に誰にでも訪れるので、仕方ないと言えば仕方ないのだが、それでも老化の加速度をある程度遅らせることは可能である。
それには前述と相反するが、適度な運動をして、しっかり睡眠をとり、食事内容に配慮することで、中でも特に重視しなければならないのは睡眠だと思う。
このテーマは日頃から関心があり、自分でも色々試しているので、又何かの機会に記そう。



今62歳だから人生の折り返し点はとうに過ぎた。いつの間にか生まれてから20代半ばまで過ごした日本での期間よりも、パラグアイに住んでいる期間の方が、長くなってしまった。

異文化経験(子供が生まれれば当地の学校へ通わすようになる。すると当然生徒の父母同士の繋がりが出来たり、ある時は強盗団のクソ野郎にピストルを突きつけられて車を盗られたり、まあ色々あったのだ)が、自分の中で触媒反応を繰り返しながら、時間軸の移り変わりと共に、己れの生存競争に都合の良いようにアレンジされたのだろう。まるで文化人類学の要約みたいだが、実際そんなもんである。

現地の人に議論で負けなくなったのは、パラグアイに住んで4~5年経ち、スペイン語とこの社会の一般状況を理解することができてからだ。
余談だが、南米スペイン語圏は北米英語圏やヨーロッパのある種の地域と比べて、他言語に寛容性がある方だと思う。スペイン語を解さないというだけの理由で、けんもほろろに扱われることはまずない。但しカモられる可能性は大いにあるが。


さてこの人生の旅路が果たしていつまで続くのかは「神のみぞ知る」だが、今まで様々な局面で多くの人々に助けられてきたことに対し、感謝を忘れないようにしたいものである。これからは自分がその恩返しをしていこうと思った。
『精力善用、自他共栄』を提唱した嘉納治五郎師範の理念はこの事だったかと、今頃になって気づいたが、とりあえず困っている人を見かけたら、シカトせずに寄り添っていきたい。

賢者は正論を語らず(親父闘病頑張れよ)

六月から七月にかけて日本へ行っていた。

その中でも息子とレンタカーで各地を訪れたのは、良い思い出になった。普段ディーゼル車に乗っているので、一年のうち何回かアスンシオンから南部のエンカルナシオンまで、往復700キロほどを走らせることがある。それは長距離を走るとディーゼルエンジンの調子が良くなるからだ。そのせいもあり運転すること自体は長距離であろうとさほど苦にならない。では日本でも車を使って移動すればいいかと思いレンタカーを借りたのだが、正解だった。

羽田空港から山口県防府まで900キロ弱だから、アスンシオン~エンカルナシオン~シウダーデルエステ~アスンシオン位の距離か。日本国内での運転は30年振りなので、事前に一週間ほど北海道で予行演習をした。これで勘を取り戻す訳だ。流石に羽田から首都高に乗り横浜を経由して東名高速に入るまでは緊張したが、道中無事◎。

外国人御用達のJR passも便利と言えば便利だが、やはり車の持つ機動性には敵わないと思う。出不精の老父母をあちこち連れていけたり、京都で夜中無性に天一ラーメンが食べたくなり(笑)、北白川本店まで急行出来たのも車があったからこそ可能だったのだ。


この旅行でエネルギーを使い果たしたのか、パラグアイに帰ってからも気力が今一つ回復しなかったそんなある日、一人のご婦人が来院した。
いつも女中さんがする掃除を、その日に限って自分でモップかけしたら腰が痛くなったとか。腰椎5番がズレているので、それを治してほしいとやたらひつこい。
昔はこういう人には「腰痛イコール腰椎○番のズレという考えは科学的根拠に欠けますよ。普段やり慣れていない運動をしたので筋肉痛になっただけだと思いますが」とか言っていたものだ(笑)。

決して当方喧嘩を売るつもりはなく、思ったことを口にしただけなのだが、相手にすると自分の意見を踏みにじられたようで面白くない。すると良好なラポールを築くのは難しく、お互いわだかまりを残したまま治療も不燃焼に終わるという展開になる可能性大。

でもあなたの回りにも、いるでしょう、こういった大村益次郎タイプの人が (注)。またそういう人に限って一本気だったりするので余計に厄介だ。昔の自分がそうだった。

元来小生には頑固というかへそまがりのところがあって、自分が正論と思うことを黙っていられない信念みたいなものがあり、たとえこれを主張すると自分が圧倒的に不利になると分かっていても、敢えて口に出してしまう。
その都度痛い目に遭ってきたのは、日本でもパラグアイでも変わらないが、外国人がそれを異国でもやらかすと、その土地独自の気質や会話の細かいニュアンスの違いが加わって、ブーメラン効果は更に大きくなる。いつまでも益次郎流を貫き他人と衝突ばかりしているのはしんどいものだ。


老婆心ながらあまりにも相手の言い分が支離滅裂でなければ、いかに自分の方が正論と思ってもそれを途中で遮ったり、頭から否定するのはやめた方がいい。己の自尊心に拘りすぎると一文の得にもならないので。これは数十年もがき苦しんで勝ち得た自分なりの結論だ。

後日あの時のご婦人から礼状を受け取った。「5番のズレを治していただきすっかり痛みは取れました。ムーチャスグラシアス!マエストロ!」と。今回治療が上手くいった要因の一つは、患者の言い分を頭から否定しなかったことにあると思う。腰椎5番の調整まで手が回らなかったが、まあいいや。
そもそも患者にとっても治療者にとっても、腰椎5番がずれていようがなかろうが、痛みが取れればそれでよいではないか。「白い猫でも黒い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ」(鄧小平)



(注)「今日はお暑うございますね」と隣人に挨拶されて「夏は暑いのが当たり前です」と答える幕末の長州大村益次郎、言葉の裏や行間を全く読めない若しくは読もうとしないこのエピソードは有名。

腰痛からの復活 ( 親友H君に捧げる)

正月第一週のその日も、仕事が終わってからジムへ行きダンベルローイングという、片手をベンチに添え、もう片方の手でダンベルを引き付ける運動をしていた。
すると急に腰が痛くなった。どうやらいつもの筋肉痛と違うヤバさを感じたので、トレーニングを早々に切り上げる。筋トレをやっていると段々取り扱う重量が重くなっていく傾向というか中毒性があるので、知らず知らずのうちに、自分の体力の限界を超えたのかも知れない。
二三日でよくなればと思っていたが、痛みはなかなか治まらない。それどころか日を追うごとに痛くなり、身体をちょっと動かしても激痛が走るようになった。

正に紺屋の白袴だ。(スペイン語にも "En casa de herrero, cuchillo de palo". という諺があり、直訳すると「鍛冶屋の家に木のナイフ」で、自分の専門のことで手抜かりがないつもりでも、ふとしたミスを犯すという意味)。
普段偉そうに治療家を名乗っている人間が、正直何やこの様はとがっかりした。しかし自分の身体を使って痛みを実体験できる機会到来と考えると、全く意義のないことでもないか、と自分に言い聞かせた。

①翌日マッサージを試みた(それも荒っぽいやつ)が、その後もっと痛くなった。ぎっくり腰など急性腰痛の場合、筋肉の炎症が治まるのに48時間かかると言われているので、24時間以内に身体を捻ったりするのはやはり時期尚早だ。
急性期の腰痛患者には、い)患部を冷やすこと。 ろ)楽な姿勢で安静にすることが、最善な対応だと思う。
ではマッサージは効かないのかというと、そうではなく例えば患部の炎症を持たない鈍痛の場合などには大いに効果がある。要は施術を受ける時期が適しているかどうかの見極めが大切だということだ。

②低周波治療機器を毎日30分ほど患部に当てて様子を見たが、(小生の腰痛には)あまり効果がなかった。とはいえ発作的に500ドルで買ってしまったものなので、捨てるに捨てられない。そっと目の届かぬところにしまって、このピリピリマシーンが記憶の片隅から消えることを期待しよう。

③二週間経っても痛みが変わらないと、ひょっとして不治の病にでも罹ってしまったのではないかと疑心暗鬼に襲われ始めた。もう世の中全て鬱陶しくなった。太宰治になりそうだ。

④それでも三週間目に入ると、「そもそもこの身体の主人は誰かと言えば俺ではないか。脳みそを大本営とすれば、四肢や内臓等全身は従順な部隊でなければならない筈。それを腰の野郎が叛乱を起こしやがって」と腹が立ってきた。よしおっとり刀で反乱分子を征伐しよう。デッドリフトでガンガン痛めつけてやろうか。どうせ毎日痛いのだ。これ以上痛くなっても構うものか。という考えがムラムラと起こってきた(笑)。
そこで三週間ぶりにジムへ行きみっちり腰を痛めてやった。
すると、はっはっは、次の日から少し楽になったのだ。こうしてまた筋トレが復活し、徐々に元の生活習慣に戻っていった。


今回の腰痛は何やかんやと全快するのに1ヶ月かかったが、精神力(気の持ち方)は決して侮れないものであると再認識。
慢性腰痛の人は往々にして「自分は元々腰が弱いから」と口にするが、それは既に腰が痛いのが常態だと無意識に肯定していることになる。

巷には身体を動かせという健康論に満ち溢れていて、それ自体決して間違っていないとは思うが、最も重要視すべきことは、それプラス気をしっかり持つことに尽きる。

自分の腰痛と真正面から向き合った暑い暑いパラグアイの夏だった。

46℃は流石にキツい

成功の秘訣

治療成功の秘訣は何かと言われて「答えは他人に対する愛だ。愛を外にあらわせなかったら、人助けはできない」と、オステオパシー医ロバート・フルフォードは著書『いのちの輝き』の中で述べている。この場合愛を慈悲の心と言葉を置き換えてもよい。

〈治療家が愛に基づく信頼の態度で患者に接すると、患者も治療家に信頼で応えるようになる。そして両者の信頼関係が築かれると、患者が古い相念パターンー自分は具合が悪いーを破って、新しいパターン―自分はこれで治りそうだーを作り上げ治療プロセスが始まる〉この信頼関係を築くためには、初診での態度や表情、会話や問診のすすめかたが、重要であると。けだし至言。

しかしよく考えてみると、大概の治療家は技術を向上させる勉強はしているだろうし、痛みを抱える患者に対しても慈悲の心は持っている。にもかかわらず流行っている治療院もあれば、その一方そうでない所もある。経営や集客という面から考えると、もう一捻り何かが必要なのかも知れない。


今から28年前アスンシオンで整体院を開業した当初、さっぱり患者が来ず、ただ待っているだけの日々だった。3ヶ月ほどそういう状態が続いたある日、新聞で整体マッサージの広告を見つけたので行ってみた。セントロから少しはずれた場所にあった。

ドアを開けると治療室は暗く薄汚い。治療ベッドに至っては、うっすら埃が積もっているではないか。お化け屋敷かい?
他の患者がいる様子もなかったが、予約した時間から30分以上待たされた。挙げ句の果て"大先生"はサザエさんのような頭にヘアカーラーをつけたまま、スリップ一丁でお出ましだ。年配の女性だった。思わず「普通のマッサージを受けに来たのだが」と言ったのも、もしや売春宿がマッサージの名を騙ってやっている類いではないかと、一瞬思ったからである。

サザエさん先生の治療を目をつぶりながら受けていたら、急にドッカーン!!! よっしゃこれは勝てると確信したのだ(笑)。


早速経営方針を立て直した。具体的には····サザエさんの反対をすればいいのである。
①治療室内を掃除し、常に清潔感溢れる環境を保つ。
②時間厳守を徹底する。
③新聞広告やチラシは一切しない。以上。

①は当然と思うが、小汚ない場所で治療を受けたいなどという人はよほどの少数派だろう。

②はほとんどの病院等では時間予約はあってなきようなものなので、患者はひたすら待つしかない(今でもそうだが)。しかしこの現状に不満を抱く人は多数いる。そこで予約した時間通りに治療を開始する。ただそれだけ。この当たり前のサービスが大いに喜ばれることとなる。

③は新聞広告に載せるのは、そもそも流行っていないから載せるのだろうというひねくれた見方を、一部の者には与える可能性がある。つまり「わざわざ来てやったぞ」と勘違いする患者が増える確率あり。そんな野郎を治療するのは真っ平ごめんだ。こちとらマザー・テレサじゃないんだよ。
以後口コミ一本でやっていこう。

一言でいうと①②③は、リスペクトを最優先させたということだ。全く迷わなかった。『患者と治療家双方のリスペクトなくして繁栄なし』この信念が今日に至るまでの幸運を引き寄せたと思っている。

Bella Vista (Itapúa) 22-oct-2023

今まで過去を余り振り返らず突っ走ってきた。先日61歳の誕生日に柔道仲間と大酒を飲んだ翌日、昔のことをあれこれ考えていたら、ひょいとあのサザエさんを思い出したのである。

当然ながら自分一人では、ここまで来れなかった。妻をはじめ家族親族や友人知人の協力、そして小生の治療を信頼していただいた約八千名に及ぶ患者の皆さん、改めてありがとう。
サザエさん先生も、そういう意味では反面教師だった。

八月一日になると思い出す(元カノではありません)

40代前半までは、日曜日の朝はハルディン・ボタニコ(植物園)を走っていた。トレーニング仲間のJ君とは、現地集合八時と約束するが、この男時間通りに来たためしがない。まあ小生が遅刻することもたまにあるので、お互いさまだが。どちらかが5分待っても相手が現れない場合は、各自が勝手に始めようと決めていた。

園内にはジャングルを抜ける6~7キロのけもの道があった。起伏のある土道は、日光が密林に遮られて下まで届かず、ぬかるんだ箇所があちこちに残っているが、コンクリートと違って踏みしめると心地よい。走る森林浴なり(笑)。
変質者がそこら辺に潜んでいるという噂があり、女性ランナーに伴走を頼まれることもあった。それはお安いご用だが、実際に本物と遭遇したら٠٠٠実戦を兼ねたトレーニングになる。


2004年8月1日無事朝トレを終えた。変質者に会うこともなく、いつもと変わらぬ日曜日だった。午前11時25分までは。


天気の良い日だったので、庭で家族とアサド(南米式焼肉)をしていたら、一台の消防車がサイレンを鳴らしながら家の前の通りを突っ走っていった。時計は12時を回っていたはずだ。その後またもう一台、それからもう一台と、2~30分の間にひっきりなしに走っていくのだ。少なくとも30台以上の消防車や救急車が目の前を通りすぎた。

大きな火事がどこかで起きたのだろうか、案外近場かもと思いテレビをつけると、とあるスーパーマーケットの火災現場を実況中継していた。

それを観てハッと息を呑んだ。つい先ほどトレーニングが終わって、何か飲み物でも買いに入ろうと思ったが、直前に気が変わって入らなかった〈正にその場所〉が、燃えていたからだ。



今から19年前のイクア・ボラーニョス大火災、特筆すべきは火災発生と同時に、この店のオーナー親子が、ガードマンに命じて出入口のシャッターを閉じさせたという異常性だろう。その結果店内に閉じ込められた400名近くが焼死する、パラグアイ史上最悪の惨劇をもたらした。

詳細についてはインターネット等で知ることができるので省略するが、当時スーパーマーケット経営者の会合では、今回のケースのような偶発事故(ボヤとか)が起こった場合、すぐ出入口を閉めるという取り決めがあったそうだ。

仮に自分がその場にいたと想像しよう。店内のどこかから火の気が上がったので、さあ逃げろと思ったら、出口に鍵がかけられていて出られない、どんどん火は大きくなり、煙やガスが充満してくる٠٠٠٠いやはや考えただけで吐き気がする。


たとえ火事場泥棒を防ぐためとはいえ、それが故に人命を軽く扱ってもいい理屈にはならないという良識が、つい数十年前までのパラグアイでは希薄だったのだ。
さすがに今ではSNS の発達により、問題発言と見なされるとすぐにあちこちから叩かれるので、よほどの馬鹿でない限り、非常識な意見を公の場では控える傾向にあるものの(本心はいざ知らず)、そのことを差し引いたとしても、昨今のパラグアイ人の共通認識が、人の命にそれ相応の敬意を払うように目覚めたと感じる。
これこそエボリューションというやつだが、小生にはイクア・ボラーニョス大火災という苦い教訓が、その転機の一つになったような気がする。


2004年8月1日午前10時半頃、スーパー・イクア・ボラーニョスの一丁手前の信号待ちで、小生の車の横にバイクが並んだ。父親らしき若い男が前に乗って、その妻らしき女が後部座席に、子供二人は真ん中に挟まれていた。
信号が青に変わると、そのバイクは右折しすーっとスーパーの地下駐車場に入っていった。小生は直進し家路についた。
彼らがその後無事だったかどうか知る由はないが、八月一日になると〈あの四人乗りバイク〉が脳裏に浮かぶのだ。合掌。

怪我の功名

この時期のパラグアイは、朝夕は涼しく日中は暖かい、一年で最も過ごしやすい季節だと、個人的に思う。

先週の日曜日、近所の健康公園のベンチに座っていると、5~60代と思しき男性が横に座った。少し脚を引きずって歩いていたので、「股関節の痛み•••ですか」と尋ねた。
ちょっとした挨拶程度のつもりだったが、それがきっかけとなり小一時間話し込む。お互い「股関節」に関しては、一家言を持っていたのだ(笑)。


変形性股関節症という、大腿骨頭と骨盤の受け皿の間にある軟骨組織がすり減ることにより、股関節の可動性が制限される厄介な病気にかかったのは、40代後半だ。原因は分からないが、高校時代柔道の稽古中に、先輩の払い巻き込みをくらい股関節を捻ったことが数度あったから、それが関係していたのかも知れない。

無理して歩くと、股関節周囲の炎症が悪化して痛かった。
数年にわたり様々な対症療法を試みたが、さほど効果がなかったので、50代前半は「面白きこともなき世を面白く」なく、悶々と暗い日々を過ごしていたものである。
だがある日、このまま痛みに耐えつつ、めそめそ泣いて残りの余生を送るのはごめんだ、と吹っ切れたので、人工股関節置換手術を受けることに決めたのだ。

長年苦しんだ末の決断だったこともあり、一片の迷いもなかった。本格的な手術で入院したのは、我が人生でこの時だけだ。

2017年6月17日 アスンシオン。



今では、痛みもなく普通に生活しているし、筋トレも毎日こなせるようになった。ありがとう、現代医学。

大きな決断をする前は、その結果たとえ吉と出ようが、凶と出ようが、どちらでも本望だという境地に辿り着くまで、とことん悩む。それからゴーサインを出す。すると大概のことは上手くいくものである。

霜鳥之彦【魚】 製作年:不明

『徒然草』の中に、「友とするに悪き者」の一つとして「病無く身強き人」が挙げられているのが、興味深い。
確かにやたら健康で能天気な人と一緒にいると、「こいつには人の身体や心の痛みは分からないだろうな」と砂を噛むような思いをすることがあるものだ。その反対に、持病の関節リウマチの痛み具合で、翌日の雨降りを予知できる、などというような人とはやたら馬が合ったりして(笑)。

まあ同病相憐れむというやつだが、自分が長い間苦しみを味わったからこそ、他人の痛みも共感できるようになった、いわば〈怪我の功名〉だ。そうであるならば、長年股関節痛で苦しんだのも、無駄ではなかったと言えなくもないかと、最近になって思うのである。


とここまで書いてきて急に思い出した。そういえば赤ん坊の頃にも入院したことがあったのだ。
今を去ること60年前、急性肺炎で京大病院に担ぎ込まれた。なにぶん生後2ヶ月なので、さっぱり覚えていないが、担当医が母に「(赤ちゃんは)今夜が峠なので覚悟しておいて下さい」と言うほど、緊迫した事態にあったようだ。

おまけに集中治療室の天井板が、自分が寝かされていた保育器のすぐ横に落下したとか。もし仮に数十センチの違いで自分の上に落ちていれば、それこそお陀仏になっていたところだ(泣)。今日であれば管理不行き届きとして、病院側が訴えられそうな出来事だが、当時は「おお、無事で良かった」で一件落着。はっはっは。

1962年12月31日 京都。



強い星の下に生まれたことに感謝しつつ、2023年の後半も「悠々として急げ」と我が道を進んでいきましょうか。