アスンシオンカワムラ新聞

パラグアイで整体治療に携わっています。日々思ったことを綴ります。

八月一日になると思い出す(元カノではありません)

40代前半までは、日曜日の朝はハルディン・ボタニコ(植物園)を走っていた。トレーニング仲間のJ君とは、現地集合八時と約束するが、この男時間通りに来たためしがない。まあ小生が遅刻することもたまにあるので、お互いさまだが。どちらかが5分待っても相手が現れない場合は、各自が勝手に始めようと決めていた。

園内にはジャングルを抜ける6~7キロのけもの道があった。起伏のある土道は、日光が密林に遮られて下まで届かず、ぬかるんだ箇所があちこちに残っているが、コンクリートと違って踏みしめると心地よい。走る森林浴なり(笑)。
変質者がそこら辺に潜んでいるという噂があり、女性ランナーに伴走を頼まれることもあった。それはお安いご用だが、実際に本物と遭遇したら٠٠٠実戦を兼ねたトレーニングになる。


2004年8月1日無事朝トレを終えた。変質者に会うこともなく、いつもと変わらぬ日曜日だった。午前11時25分までは。


天気の良い日だったので、庭で家族とアサド(南米式焼肉)をしていたら、一台の消防車がサイレンを鳴らしながら家の前の通りを突っ走っていった。時計は12時を回っていたはずだ。その後またもう一台、それからもう一台と、2~30分の間にひっきりなしに走っていくのだ。少なくとも30台以上の消防車や救急車が目の前を通りすぎた。

大きな火事がどこかで起きたのだろうか、案外近場かもと思いテレビをつけると、とあるスーパーマーケットの火災現場を実況中継していた。

それを観てハッと息を呑んだ。つい先ほどトレーニングが終わって、何か飲み物でも買いに入ろうと思ったが、直前に気が変わって入らなかった〈正にその場所〉が、燃えていたからだ。



今から19年前のイクア・ボラーニョス大火災、特筆すべきは火災発生と同時に、この店のオーナー親子が、ガードマンに命じて出入口のシャッターを閉じさせたという異常性だろう。その結果店内に閉じ込められた400名近くが焼死する、パラグアイ史上最悪の惨劇をもたらした。

詳細についてはインターネット等で知ることができるので省略するが、当時スーパーマーケット経営者の会合では、今回のケースのような偶発事故(ボヤとか)が起こった場合、すぐ出入口を閉めるという取り決めがあったそうだ。

仮に自分がその場にいたと想像しよう。店内のどこかから火の気が上がったので、さあ逃げろと思ったら、出口に鍵がかけられていて出られない、どんどん火は大きくなり、煙やガスが充満してくる٠٠٠٠いやはや考えただけで吐き気がする。


たとえ火事場泥棒を防ぐためとはいえ、それが故に人命を軽く扱ってもいい理屈にはならないという良識が、つい数十年前までのパラグアイでは希薄だったのだ。
さすがに今ではSNS の発達により、問題発言と見なされるとすぐにあちこちから叩かれるので、よほどの馬鹿でない限り、非常識な意見を公の場では控える傾向にあるものの(本心はいざ知らず)、そのことを差し引いたとしても、昨今のパラグアイ人の共通認識が、人の命にそれ相応の敬意を払うように目覚めたと感じる。
これこそエボリューションというやつだが、小生にはイクア・ボラーニョス大火災という苦い教訓が、その転機の一つになったような気がする。


2004年8月1日午前10時半頃、スーパー・イクア・ボラーニョスの一丁手前の信号待ちで、小生の車の横にバイクが並んだ。父親らしき若い男が前に乗って、その妻らしき女が後部座席に、子供二人は真ん中に挟まれていた。
信号が青に変わると、そのバイクは右折しすーっとスーパーの地下駐車場に入っていった。小生は直進し家路についた。
彼らがその後無事だったかどうか知る由はないが、八月一日になると〈あの四人乗りバイク〉が脳裏に浮かぶのだ。合掌。