アスンシオンカワムラ新聞

パラグアイで整体治療に携わっています。日々思ったことを綴ります。

この歳になって気づいたこと

 あるオステオパシー医から電話がかかってきたのは、まだ開業準備に追われていた1995年5月頃だ。「一度会って話がしたい」とのこと。
 

 約束した時間に彼の自宅兼治療所へ行った。オステオパスG氏は50代半ばの人当たりのよいフランス人だった(当時パラグアイにはフランス人の手技療法家が数名いた)。

 彼のスケジュール帳を見せてもらったら、一日30名以上の患者の予約がびっちり書き込まれていたので、びっくりした事を覚えている。
 仮に一人当たりの治療に15分かかったとしても、最低8時間以上は詰めてやらなければならない計算となるが、助手を雇わずに一人で治療すると言うので、どうやってこなすのだろう。 
 自分の治療法だと一人の患者に対し一時間位かかるので、これは真似出来ないなと感心した。
 

 そうこうしているうちに「実は仕事をたたんでフランスへ帰るので、私の患者名簿を一万ドルで買わないか」と言い出した。
 如何に貴重な顧客情報と言われても、一万ドルは法外な値段に思われたし、例え名簿を貰ったところで自分のメリットに繋がるとは余り思えなかった。
 そもそも患者は新規開拓しようと元から考えていたので、「No gracias (いえ結構です) 」と断ったのだ。

 「いや、君ならばこんな名簿がなくても、患者に困ることはないだろうが」すかさず彼は先程の発言をフォローしたが、何となくスッキリしないまま別れた。

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Av. Santísima Trinidad

 一週間後彼の経営するレストランへ行った。サン・マルティン通りに面した上品な雰囲気の《 La fleur》 という店だった。
 G氏はオステオパシー治療家以外にも、レストラン経営や様々な事業を展開する、やり手実業家としての側面も持っていると聞いたので、「ほんまかいな」とこの目で確かめようと思ったのだ。

 すると本人がいた。何となくこちらの気持ちを見透かされたかのようでバツが悪かったが、よく考えてみれば彼の店なのだから、オーナーがそこにいて何の不思議もない訳である。

 「先日君と会ったのは、果たして君が信頼に足る治療家かどうかを知りたかったからだ。あの顧客名簿の話に少しでも乗ってくるような素振りがあれば、君のことを私の患者に紹介するのはやめようと思っていたのだよ」と言う。
 調子のいいことを言われたが、自分がシドニィ・シェルダンの小説か何かに出てくる脇役の間抜けみたいに思えて、面白くない。
 かといってそれを顔に表すのもダサいので、「あれが一万グアラニー(パラグアイの通貨。円換算すると200円ほど)であれば買ってもいいと思ったのですが٠٠٠٠」と言い返したら、G氏は吹き出した。

 何となくここは彼の奢りという展開になり、ではごっつぁんですと高いワインをがぶ飲みした事を覚えている。



 20代30代の若い頃は、「自分に近づいてくる連中に、寝首を掻かれないように用心しよう」という考えがどこかにあったのか、肩に力が入りすぎていた。その為 G氏の真意が分からなかったし、分かろうともしなかった。
 
 時が経ち、自分もちょうど当時の彼と同じ位の年齢になり、何故あの時私に、彼が話かけてくれたのか今は分かる気がする。
「東洋から来た新人、自然体で頑張れ」と要は言いたかっただけではなかったか。

 当然ながら世の中には心優しい親切な人もたくさんいる。
 とかくコロナの影響もあるのかもしれないが、最近の傾向は「人を見たら泥棒と思え」他人を警戒しビビりまくる風潮が主流を占めている。自分の心に余裕がない時は、何を見ても疑心暗鬼に陥るものである。

 人に偉そうなことを言うつもりは毛頭ないが、いつ死ぬか分からぬこの人生、常に大人(たいじん)を目指していきたいものだと、50代後半になって切に思うようになった(別に何かを悟ったという訳ではありません)。

 

肉は硬かったが、(色々な意味で)良かったこと

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Av. Santísima Trinidad
 妻とショッピングセンター内にあるステーキ店へ行った。

 ブエノスアイレスにある有名な肉料理レストランのフランチャイズ店舗として、アスンシオンにオープンしたのは6~7年前の事だったと思う。ここは二号店である。
 コロナ以前は、週末は予約が取れないほど流行っていたものだ。


 ビッフェ・デ・チョリソ(サーロインステーキ) 400グラムを注文。焼き具合はミディアムで頼んだ。
 待つことしばし20分、肉塊が目の前にどんと置かれたが、パッと見てヤバいなと思った。食欲が余りそそられないのだ。何故か? 

 それは肉から湯気が全く出ていなかったからである。正しく肉が死んだ状態であった(勿論とうに死んでいるのだが)。さて。

 ①先ず肉の真ん中にフォークを突き刺し、ナイフで切ろうとすると、必要以上の力がいる。即ちこれは硬い。ガクッときた。
 ②塩が効いてなかった。焼く前に塩を振らない肉は、醤油をつけない刺身のようにまずいものである。

 ①をクリアできなかったのは、百歩譲るとしても、②の減点ポイントは痛い。肉を売りにしている店にしては、大きな失態だと個人的には思う。
 自分の描くアサード(南米風焼き肉)とはこうあるべきというイメージと、余りにもかけ離れていたので、悲しくなった。


  これは苦情を言わねばと思ったが、結局は言わなかった。それは2つの理由による。

 一つは、周りのテーブルを見渡すと、皆さん、つらいことも忘れて楽しそうに食事をしている。依然としてコロナ禍にはあるが、少しは頭から離そう。
 その光景に懐かしいようなちょっと神々しい(?)感覚さえ覚えた。 去年まではそれは日常生活の一部だったなあと感慨にふけてしまったのである。
 それでこの貴重な瞬間(とき)を、肉が硬いとか冷めているとか、取るに足らない問題で、一石を投じて(流れを)断ち切りたくないなと思ったのだ。
 
 もう一つは、一人で食べているならまだしも、家族や友人と会食をしている場合、一人が顔を真っ赤にして料理にけちをつけると、他の者をも白けさせてしまうことが往々にしてある。
 数ヵ月ぶりの妻との外食で、この事態も避けたかったからである。

 かと言って硬くて冷めた肉を、めそめそ泣きながら食べなければならない筋合いもないので、ウエイターを呼び「もう一度肉を温めてもらえるかな。少し冷めているよ」と言った。

 温めたら幾分ましになった。

 インスタ映えする写真を撮ろうと思っていたが、コロッと忘れてしまった。でも貴重な瞬間を過ごせたので、良しとしよう。

 『生ビールとフライドポテト』だけが、やけに旨かった。


 『幸せを得られるかどうかは、思考の質に左右される。それゆえ適宜注意を払い、悪辣で無分別な考えにおぼれる事がないようにしなければならない』マルクス・アウレリアス

聖週間に山口社長を回想する

 NHK で「さかなクン」の番組を観ていたら、昔の魚屋時代を思い出した。あれは二十代後半に積んだ貴重な体験だった。
 おかげでその後多少の困難にぶつかっても「あの時頑張れたのだから、今回も何とかなる筈だ」というポジティブ思考を身に付けられたのは大きな財産だ。
 
 1991年6月山口商店で働き始めたのは、高校時代の柔道部の友人山口君のツテである。彼の父君が鮮魚仲卸業をしており、「昼十二時までに終わる仕事やし、会社のマンションが空いているので住んだらどうや」と誘われたのだ。
 パラグアイでの協力隊活動が終わり、結婚を間近に控えていたが無職、もとい就活中だった。

 早朝四時出勤も苦にならなかったし、適度な肉体労働は軽めのストレッチのような感じで、体調は最高だった。兎に角がむしゃらに働いたものである。
 私を信じてパラグアイからいきなり京都丹波口のプロレタリアート御用達マンションへやって来た妻の為にも頑張らねばと、気合いも入っていたのだろう。

 

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Río Paraguay (Ypané)

 
 さて職場には K という古参がいたが、社長のいるところといないところでは、ガラッと態度を変える男であった。「ええかお前、親方の見てへんとこでは手抜きせなあかんで。わしの立場があらへんさかいな」と言うので、思わずそいつの顔を見直した。

 お前呼ばわりされたのもカチンときたが、それより「こんな天然記念物もののクズがいるのか」という驚きだ。自分はエリート意識など持っていないが、昔から下衆野郎が虫酸が走るほど嫌いなのである。

 可能な限り K と接することを避けていたが、ある日理不尽な言いがかりをつけられた。一方が他方に嫌悪感を持つと当然相手も気づくので、奴も私に我慢できなかったのだろう。
 つまり起こるべくして起こった衝突ではあるが٠٠٠٠٠「売り言葉に買い言葉」反射的に野郎の襟首を掴んでパラペット(手すり壁)まで引きずっていった。中央市場の三階屋上駐車場だった。

 上から突き落とすと十中八九死ぬ。流石にそれは避けないと小生がお縄を頂戴する事になるので、落とすふりをして恐怖を味あわせてやろうと思ったのだ。
 それでも腹の虫が収まらなかったので、張り手一発かまして放免してやった。

 大人になってから赤の他人に肉体的被害を加えたのは、後にも先にもこの時だけである。武勇伝でも何でもない不愉快な出来事だ。

 ただ時と場合によっては売られた喧嘩は買わねばならないと思う。狂犬は噛みつかれる前に蹴飛ばしてやろう。

 その日の夕方社長が自宅へやって来た。てっきり怒られるかと思ったが「河村君ようやった。K は昔から素行が悪く問題あるんや。朝の件は気にせんでええで」と。
 元より気にしていないが、社長は私が仕事を辞めるのではないかと心配したのだと思う。私はそんなナイーブな性格ではありません。


 もう一つ、初めてボーナスを貰った時中身をチェックしてから「これは間違いではありませんか」と社長に直訴(?)したことがあった。
 自分が勝手に予想していた金額と異なり、本当に何かの手違いかと思ったのだ(笑)。「それで間違いないんやけどな」と言われてガックリして事務所を出たら、後から社長が追いかけてきて「他の従業員には黙っといてな」五万円上乗せしてもらった。

 映画『ロッキー』で冷たかった老コーチの申し出を断りアパートから追い出したロッキーが、その後直ぐ彼を許して再びコーチとして受け入れるシーンがあるが、この箇所を観る度に上記エピソードを思い出すのだ。

 社長の立場からすれば、こんな従業員(私)を抱えて頭が痛かっただろうなと、今になって思うが。
 

 最後に社長にお会いしたのは、十年以上前に市場を再訪した時だ。「河村君は昌則(友人の名)の友達やったけど、わしの息子みたいなもんや」と言われたことをよく覚えている。

 京都での四年間妻共々本当にお世話になったのだ。

 山口明男社長その節はありがとうございました。南米パラグアイより益々の御健康をお祈り申し上げます。

 河村真作


 先週末から再び外出制限となったパラグアイ(泣)。折からの聖週間(セマナサンタ)と重なり、街は長閑過ぎるほど静かである。

 

一年経って(雑感)

 一昨日イパネへ行った。

 イパネはアスンシオンから27キロ離れた郊外にある田舎町である。毎年この時期に行き税金を納め、それからパラグアイ川を眺めて帰る。一年前その時の様子や拡がり始めたコロナ禍についての心境を、当ブログに記した。

 新型コロナ収束の兆しが見えない状況が、当地でも続いている。それどころか感染者数はここ数日急増する一方だ。

 今月18日から首都アスンシオンを含む国内20数箇所で、夜8時から翌朝5時まで外出制限の大統領令が公布された。
 
 元より脆弱な医療体制や人々の感染に対する意識の低さに加えて、構造的な慢性汚職体質から、政府が効果のある政策を打ち出せない等、コロナ禍が終わらない理由はいくらでも挙げることが出来るが、分析したところで詮無きこと。
 却って虚しくなるので話題を変えたい。
 

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Ypané

 いつも iPad で「令和の虎」を観ている。これは五人の成金社長(虎と呼ばれる)が、志願者のビジネスプランに身銭を切って投資するバラエティー番組である。10数年前に「マネーの虎」という番組がテレビ放映されていて、その You Tube 版だそうだ。

 出演者皆弁が立つ。どいつもこいつも胡散臭そうだが、案外自分自身を志願者に自己投影して見るからか、番組にのめり込んでしまうのだ。
 それは何故かというと、私が論理的に議論を進めるのが苦手なので、それに対して憧憬の念を抱くところがあるからだと思う。
 

 大学4回生の夏、就職活動である会社を訪問した際、面接担当者が余りにも高圧的、敵対的な態度で終始する(未だに理由不明)ので、当方も面食らい「学生さん、あんたの趣味は何だね」「"女"ということにしときましょうか(注)」と滅茶苦茶な返答をしたっけ。翌日不採用通知の電報が届いたが。

 (注)「趣味が女」は勿論口から出任せを言ったのだが、司馬遼太郎『世に棲む日日』の高杉晋作が長州藩主に拝謁する場面で同様のくだりがあり、それが頭の片隅に残っていたのか、条件反射的にポロっと出てしまった。念のため。


 もう一つは、海外青年協力隊の面接時に「ボランティアについてどう考えるか」と尋ねられた時のことだ。
 実は優等生的模範解答を言おうと思ったのだが、「本音を言えばいいやないか」ともう一人の自分が囁くので、ジム・キャリーの映画『ライアーライアー』のように言葉が出なくなった(参ったよ。よりによってこんな時に)。

 そして「·····私の応募理由は自分が外国へ行き、見聞を広めたかったからです。ボランティアについて関心を寄せたことは今までありませんでした。しかし動機が不純であれ、己の活動が誰かの役に立てば、そこに価値があると思いますが·····」のようなことを言った筈である。

 言い訳のような返答をしてしまい、これは面接ではねられるかと悔やんだが、その一方本心を言ったのだからこれで良かったと開き直れたことも事実だ。


 「令和の虎」を観ながら、ほろ苦い昔のエピソードを思い出した(笑)。


 結論) 相手を傷つけない限り、本音を言おう。大概それで上手くいくものである。
 
 

 

 
 

その名前どういう意味ですか

 南米の中央に位置するパラグアイの気候は亜熱帯性で、夏(11月~3月)はとても蒸し暑い。
 その為在宅時は裸でいる事が多い(勿論上半身のみ)が、ある時開襟シャツを羽織っている方が、かえって暑さが和らぐことに気づいた。
 それ以来開襟シャツ党となった。中東諸国の男性があの白い民族衣装を着ている理由もそうかも知れないが、案外身体に何か一枚纏う方が、暑い時はかえって過ごしやすいのだ。

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Parque Guasu

 先日服を買いに行った。店構えが高級そうだったので少し気後れしたが、「たかがシャツ一着、どうということはないだろう。気に入らなければ買わなければ良いだけだ」と自分に言い聞かせていざ突入。

 私の〈失敗しない服の買い方三原則〉は
①客が混んでいない店。
②女性店員のアドバイスを求める。
③最後の最後まで値札を見ない。
である。

 ①は客が多いと、その動向に気を取られるし、何故か分からぬが意味のないライバル心を抱いたりして、別に欲しくもない物を買ってしまい、後で後悔することがしばしばあったからだ。

 ②は女性に「こちらの服よりそちらの方が似合いますよ」と言われると「やはりそうか」と素直に信じてしまう。同じことを男性に言われても、「こいつ俺に金を使わせようと心にもないことを言いやがって」と思わないでもない(同性諸君、失礼)。

 ③は買う前に値段を知ると、買うのを止めようかと躊躇することがあるが、レジで初めて代金を言われれば、すっと買わざるを得ない。それで出費が思いの外多かった時は、二三日うじうじ悩むことになるが、まあ大概の服は三年も着ると、充分元が取れるものだ。


 それでシャツ購入の件はどうなったかと言うと、上記三原則を順守して満足の行く買い物が出来た。
 勘定の段で店員さんが領収書を書きながら、私の名前の意味を聞いてくる。これは異国で尋ねられる定番の質問なので、任しとき!

 "真"は事実や真理で、"作"は創造するとか行うという意味で、「ほらご覧の通り、名は体を表しているでしょう?」と説明すると、「ケ、リンド!(素晴らしい)。私に子供が出来たらシンサクと名付けたいわ」と言われた。
 有難う、お嬢さん。お世辞でも嬉しいよ。


 閑話休題、南米は多くの国が移民によって成立した歴史を持ち、「人種のるつぼ」状態だなと肌で感じる事が、普段から何気なくある。他の地域に比べると人種間の壁をそれほど感じない(全く無い訳ではないが)。
 一昨年イタリアとスペインを訪れた時も、典型的な南欧人以外の人が多く暮らしているのを見て、さしずめこれは「人種のモザイク」と言うやつかと思った。

 近年東京や大阪などの都会は言わずもがな、日本の田舎でもコンビニや様々な職場で、外国人従業員を見かける事が多い。
 胸に付けた名札から、ああこの人はベトナム人かなとか、中南米の人だなと想像する。

 是非読者諸賢も、彼ら外国人に名前の意味や由来を尋ねてみるとよいと思う。きっと会話が弾んで、喜んで答えてくれる筈である(偏屈野郎であった場合は保証の限りなし)。
 但し仕事が忙しそうな時は止めておこう。


 

 
 

他山の石とは

 
 今朝電気代を払いにANDE(パラグアイ電力公社) へ行った。

 何故か請求書が家に届くのがいつも遅く支払期限間際であったり、酷い時は締切日を過ぎてからということもあるので(笑)、昔はいらいらしたものだ。
 しかし支払いが遅れても1ヶ月以内であれば延滞金は発生しないので、請求書に書かれた支払期限日プラス1ヶ月迄に払えば良い、と考え方を切り替える方がよい。
 「郷に入っては郷に従え」ということでしょうか。
 
  さて当地でもコロナは依然として終息していないが、最近はもうニュースも以前ほど注意して聞かなくなった。
 現在パラグアイではデング熱が猛威を振るっており、これも罹るとそれなりに厳しいので決して油断できないのだが、人間流石に四六時中緊張の連続でもやってられないので、まあ出来る範囲で予防と体調管理に努めるしかないなというスタンスで生活している。

 昨年度コロナの出始めは、南米の優等生であったパラグアイ、今では皆さんすっかり緩みきっているという感じだ(泣)。
 

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ニャンドゥティ(パラグアイの伝統的レース刺繍)をモチーフした歩道橋

 ANDEの電気代徴収窓口の横に「私は聾唖者です」と紙が貼ってあった。
 もしかしたら口の動きを見てもらう方が、少しでも仕事の手助けになるかと思い、マスクをずらして「ブエノスディアス、セニョール」と言った。すると彼は横を向いてにこりともせず、手のしぐさでマスクをつけろと言っている。
 何かまずいことを仕出かしたかと一瞬思ったが、同時にこのおっさん愛想のない奴やなとも思った。

 障害のある人もない人も、共に生きていく社会を作っていくことに少しでも協力したいと常に思っている。これは本音だ。そして障害による不便さから発した彼と私のちょっとした気まずい食い違いを、彼の所為などと非難するつもりは毛頭ない。

 だがおっさんも朝から仏頂面したままだし、請求書のちぎり方は乱暴だし、お釣りは投げて寄越すしと、若干ソーシャルスキルに問題ありと言えなくもない。

 いや他人のことをとやかく言うのは止めよう。こういう時こそ「人の振り見て我が振り直せ」で良いではないか。

 正しく我以外皆我師である(吉川英治)。
 
 

 

発声の効力を侮るべからず

 『ザ・ゲーム【RULES OF THE GAME 】』(著者ニール・ストラウス)を読んだ。
 サブタイトルに〈極上女を狙い撃つ、ナンパ師レベルをチェック〉とあるので、巷に溢れるナンパ本の類いかと勘違いされそうだが、人生の指南書と言っても過言ではない程為になることが載っていた。

 その中の一つに強運を呼び寄せる要因として「発声」があると言う。

 人は自分の身だしなみや信念若しくは行動といったものと、運を結びつけて考えるが、「発声」は案外見落としがちな視点である。
 確かに我々は普段から、その人物の姿を見なくても、声を聞いただけで「この人は誠実そうだ」とか「この人とは近づきたくない」と瞬時(そしてほぼ無意識)に判断している。

 良い発声=運を引き寄せる声を身につけるために避けなければならないポイントは、

①小さく不明瞭な声
②早口
③脳の屁
④抑揚感なく暗い声
⑤質問口調になる

とある。

 ①にならない為には、先ず姿勢を正して、腹の底から深く息を吸い込み、そしてゆっくり吐く。これを二度繰り返してから、相手に向かって言うのではなく2~3メートル上空目掛けて、声が弧を描いて相手を越えていくイメージで言うと良いらしい。
 初対面の時やここぞという時に使えそうなテクニックだ。通常声の目盛りを5で話しているならば、それを7まで上げて話すと良いとのこと。

 ②は血の気が多い時や精神的に追い詰められた時は、誰しも早口になる傾向がある。いつも自分をチェックし、話すスピードが上がっていることに気づいたら、深呼吸をしてペースを落とすとよい。
 早口は、ヤバイ局面になると決まってお腹痛で雲隠れするアベ某や、吉本の三流芸人の専売特許にしておこう。

 ③は"あの~"とか"え~と"等を指す。自信の無さの表れである。
 (注意)"アノ"はスペイン語で"肛門"の意味なので、スペイン語圏では連発するのは避けよう(笑)。

 ④はスガ某を思い浮かべると妙に納得。

 ⑤は自分の主張する意見の語尾が上がっていれば、相手に質問しているように聞こえ、結果的にあなたに決心がついていないような印象を与えるので、軽く見られる(舐められる)。
 以上。


 つまり外見の不細工さで人生の不運を嘆くあなたは、それは持って生まれたものなのだから、整形手術でもしなければ解決法は無い。
 しかし発声であれば自分の好きな迫力のある声の持ち主に注目し、その言葉使い、トーン、語りのスタイルをそのまま使い彼のセリフを反復することによって、今までのくすんだ声を、憧れの○○風に変えることは(ある程度まで)出来るかも。

 この僅かな努力が強運を掴むことに繋がれば、それはお安い御用ではないか。
 早速一週間前から、折に触れて実践しているが、手応えは何となくありそうだ(笑)。
 

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Parque Guasu Metropolitano


 とここまで書いていて、昔スペイン語のエステラ先生にも、上記の①~⑤はするなと言われていたことを思い出した。

 開業した頃スペイン語をもっと極めようと個人レッスンに週二回通った。別に語学が好きだった訳ではなく、喋れないと食い扶持を稼げないというシビアな問題があったからだ(泣)。

 協力隊で初めてパラグアイに来た時も、それなりにスペイン語の勉強を積んで着任したのだが、いかんせん付け焼き刃で、語学を自由自在に操るというレベルには程遠かった。

 結構厳しい先生だったが、私も一度決心したことは案外続ける方なので、三、四年続いた。
 いつだったか「一番大事なことは、Habilidades sociales (ソーシャルスキル)を身につけているかどうかということよ。スペイン語を完璧に話すことよりはるかに重要だわ。沢山いる生徒の中であなただけが、5分遅れる時でも必ず電話を寄越すし、家の女中にも分け隔てなく挨拶するでしょう。そのような小さなことでもちゃんと出来る人は、パラグアイでも世界の果てでもどこでも成功するわ」と言われた。

 何とも含蓄のある言葉で、そのままそっくり twitter で呟きたい位だ(後で呟こう)。

 今日までスペイン語を曲がりなりにも駆使して生活出来ているのは、当時のエステラ先生の指導の元、土台がちょっとはしっかりしたものになったからだと思う。とても感謝している。
 そしてこれも「発声」が引き寄せた強運の一つだろうかと考えるのである。