アスンシオンカワムラ新聞

パラグアイで整体治療に携わっています。日々思ったことを綴ります。

最初にして最後の出張治療で学んだこと

 1995年6月からアスンシオンで整体治療を始めたが、当初仕事は殆どなかった。その頃は本を読むか、DIY ばかりして過ごしていたものだ。

 そんなある日「私の家に来て治療してくれないか」と電話がかかってきた。ある日系人の方だった。「それよりも当治療所へ来られた方が、より納得のいく治療ができると思うのですが」と私は答えた。本音を言うとわざわざ出掛けるのが、少し面倒くさかったというのもある。
 だが彼は「いや、それでも来てほしい。車で迎えに行くから」と頑なに言いはるので、当方は「だ、か、ら、あなたが車で来るのであれば、当所で降りて治療を受ければ同じことではありませんか」と言い返す。まるでピンポン球のラリーである。

 何故か両者共意固地で自分の意見を引っ込めないのと、この人も自宅治療でなければならない確たる理由を言わないので、段々腹が立ってきた。
 これが「令和の虎」の志願者であれば、到底希望額には到達しないだろう(意味の分からない方は無視して下さい)。

 とうとう私が根負けしてA氏(件の頑固依頼人)の運転で彼の家へ行ったのだが、車内はお互い終始無言でかなり居心地が悪かったものだ(笑)。

 よくよく話を聞くと治療を受けるのは、別の年配の御婦人( Bさん)であった。「初めからそう言えばいいのに」とこちらは更に面白くない。A氏とBさんの関係はよく分からなかったが、まあそれはどうでもいい。

 治療自体は普通に終わったと思う。確か御自宅の横に日本料理店があり、治療後「何か欲しいものが有れば遠慮なく注文してくれ」と言われたので、「ではカツ丼を」と答えた記憶があるようなないような。
 
 それから二週間程して、A氏から再度電話があったので「 Bさんはその後どうですか」と尋ねたら、返ってきた言葉は「あれから····死にました」だった。
 これには心底驚いた。全く想定外の応答だったので。そう言えば確かにあの御婦人ちょっと華奢というか弱々しい感じはあったが····、頭の中を様々な思考が駆け巡り「もしや治療がきつすぎたのでしょうか」と間の抜けたことを言ってしまった。

 「そうではないですよ。先生」A氏の説明によると、 実は Bさんは既にガンの末期症状で余命宣告を受けていたそうだ。毎日苦闘の連続で、 何か少しでも楽になるものはと考え、ダメ元で私に電話をかけてきたというのが真相だったらしい。

 Bさんは治療を受けたその晩は久しぶりにぐっすり眠れ、とても喜んでいたとのこと。そのお礼が言いたかったのだとA氏に言われた。
 
 あの時 彼女を目の前にして、生命力がそこまで低下しているとは、全く気づかなかった。つまりそれは自分の経験不足から来る、患者が発するそっち方面のシグナルをキャッチ出来なかったからだと思う。
 但し『うしろの百太郎』や『恐怖新聞』のように、その人間の死ぬ時期がはっきり見えてしまう、というキャパが有っても、これはこれで厄介だろうが。


 それ以降患者を診る時は、もっと敬意を持って接するようになった。患者の「呼吸」や「プラーナ(気息)」に注目し、その人が持つ生命力に関心を持ち始めたのもこの出来事がきっかけだ。

 それと不思議なのは A氏の名前も顔も、伺ったお宅も、今では全く思い出せないことだ。大抵のことはメモする自分としては珍しいことである。

 勿論インターネットで探せば分かるかも知れないが、よしんばそれらを知ったところで今更何になろう。思い出せないままでいいではないか、と何故かこの一件に関しては思うのだ。