アスンシオンカワムラ新聞

パラグアイで整体治療に携わっています。日々思ったことを綴ります。

日本から一番遠いのは?(自分史並びに世界の現状に意見する)


 東京で就職して2年目の冬だった。もう32年前だ。地下鉄有楽町線の中吊り広告に、青年海外協力隊の募集ポスターが貼ってあるのを目にした。
 全てはここから始まったのである。

 サラリーマン生活が肌に合わず、もう辞めようかと考えていた矢先、渡りに船と説明会に出た。
「道着一つで外国へ行ってみるか」

 一次試験は筆記、二次試験は実技だった。つまり試合を候補者同士でさせられるのだ。各々腕に自信の有りそうな猛者揃いだったが、2,3勝あげることが出来た。

 そこで審査担当の人に派遣要請書を見せられ「河村君、ほぼ合格だ。このなかでどこへ行きたいかね」と言われた。
「特に希望はありません。どこでも行きますので、適当に選んで下さい」
「それは駄目だ。自分で決めないと」 
「うーん日本から一番遠いのはどこですか」
「ここ」
「ではそこにしましょうか(笑)」
 その指先にはパラグアイとあった。


 さてパラグアイ、
〈南アメリカ大陸のほぼ中央に位置しブラジル、アルゼンチン、ボリビアに囲まれた内陸国で面積は日本の約1,1倍、人口約700万人、亜熱帯気候に属する。暑くて湿度の高い夏が続くのが特徴である。首都アスンシオン〉(wikipedia より)

 
 1989年2月19日、10名の仲間と共に、初めて南米パラグアイの土を踏んだ。
 空港から宿泊先へ向かうバスの窓から容赦なく入る熱風が、顔に当たり暑いのを通り越して痛い位だ。いやーこれは手強い、参ったなと思った(泣)。

 この日まで約半年に渡り、長野県駒ヶ根訓練所で研修や、メキシコで語学訓練を積んできた。そしてその日から始まる二年間の協力活動に於ても、幾多のエピソードや、数多くの思い出があるが、今回は本文の趣旨から外れるので端折ろう。

 柔道指導も二年目を迎え、後1ヶ月で任期終了というある日、セントロにあるソディアックビルの屋上に上った。
 ここから見えるパラグアイ川とその後ろに広がる平原のコントラストが美しい。昼だと小汚ない街並みも夜はそれを隠してくれる。日中の猛暑も和らぎ爽風が心地よかったのを覚えている。

 その時ふと思った「これからもこの国で暮らそうか。それもいいか」と。 

 そうと決めたら、先ずふんどしを締め直そう。協力隊任期終了後、資金を稼ごうと京都で生活を始めた。既に結婚もしていた。背水の陣を敷いた訳だ(笑)。

 朝は中央卸売市場で働き、昼から大阪のカイロプラクティック学校で勉強した。女房もやがて京都や名古屋の大学で、スペイン語を教えるようになった。

 その間山口社長、両親、城陽の伯父叔母、下鴨の祖母はじめ多くの親戚、先輩、友人に助けられたことは、今でも感謝に堪えない。

 あっという間の4年間であった。

 パラグアイに戻ったのは1995年4月、31歳の時である。

 しかしよく考えると(別に考えなくても)、外国で一個人が、ゼロから事業を起こすというのは、向こう見ずを通り越してカミカゼとも言えるほどの困難を伴う。

 確かに協力隊時代パラグアイで二年間生活したが、これは日本政府の後ろ楯があるゆえ、多少の甘えも許されたのだ。それが丸腰になってしまったものだから、もう言い訳は効かない。再びふんどしを締め直した。

 幸い我々夫婦も、持ち前のバイタリティーで、少しずつ生活基盤を整えていくことが出来た。お互い若かった。
 昨年末亡くなった義理の母親から、再三に渡り援助を受けたことも忘れられない。
 ともかく人間一人では生きていけないのである。

 何故パラグアイに住みしぶとく現在にまで至るのか。全ての動物にとって、帰巣本能は際立って強いものだそうだが(私にとっては日本が相当するが)、この国の持つマグネティズムは何処から来るのだろうか。

 それはパラグアイが持つ豊かさ〈外から来た人間を拒絶せず、受けいれる寛容性〉に心惹かれたからだと思う。

 ご多分に漏れず、この国も途上国特有の深刻な問題がある。具体例を述べるのは....気分が萎えるので止めますが。 

 だがそれらを差し引いても、南米の持つ懐の大きさが好きなのである。それがこの地に居る大きな理由、と言えるのかも知れない。
 ありがとう。パラグアイ!


 ところで数年前から、またしても偏狭なナショナリズムが、世界各地で幅を利かせるようになってきた。

 他国の事情など知ったことか。外国人は排斥せよ。難民は受け入れるな等、あたかもそれらの意見が、自分達を救う唯一の方法であるかのようだ。

 コロナが出始めた時、中国からの情報は信頼出来ず疑心暗鬼を生じた。今回はアメリカ大統領自ら、手をこまぬいて傍観者の立場を貫いた。
 仮にもし世界中がもう少し協力して、初期の段階から対策を立てることが出来ていれば、その後の展開と状況は変わっていたのではないかと思っている。そういう意味で現状がとても腹立たしく無念である。

 いずれ終結するであろう、この地球的規模の災難が、せめて新しいグローバリズム再考のきっかけになればと切に願う。(了)