アスンシオンカワムラ新聞

パラグアイで整体治療に携わっています。日々思ったことを綴ります。

記憶とはあいまいなもの

 子供の頃鶏を絞める場面を興味津々で見ていた。近所のおっさんが鉈で首を刎ねると、その胴体だけがこちらに向かって駆けてきた。そして私の周囲をぐるぐる廻りだし3、4周目にバタッと事切れた。と同時に前方を見ると血まみれの頭が嘴をパクパクさせていた。
 楳図かずおの漫画を見ているようでチビりそうになった(泣)。そのせいか未だに筑前煮に入っている鶏の皮のぶつぶつが食べられない。これをトラウマというのだろうと長い間思っていた。

f:id:spqr020220:20200821100828j:plain

 『あなたの脳のはなし』(デイヴィッド・イーグルマン著)によると「記憶」とは人生のある瞬間の正確な映像記録ではなく、過ぎ去った時代のはかない脳の状態であり、思い出すには自分でその都度甦らせなくてはならないらしい。
 しかもニューロンの連想ネットワーク上の現時点での知識が、それに対応する過去の記憶をしばしば書き変えていくとのこと。イーグルマンは脳神経学の世界的権威である。

 その為誰かが「あの時はこうだった」と言うと、その場に居合わせたあなたの脳内では別バージョンで記憶しているので「いや違う」としばしば言い争いになるという訳である。
 そして問題は相手もあなたに対して「何を寝ぼけたことを言っているのか。こいつも少し惚けたかな」という思いを持つことだ(笑)。

 ということは私の偏食も本当はもしかするとあの鶏事件とは無関係で、単純に(それ以前から)皮のぶつぶつが嫌いなだけであったのが、繰り返し〈鶏嫌いは幼少期のトラウマによるもの〉と自分の脳に言い聞かせた結果、脳内ネットワークでがっちり結びつき、自己解釈のトラウマ説が脳に採用されたのかも知れない。
 しかし別にこの考察を突き詰めたとて何のメリットもなさそうなので(笑)、これ以上深入りするのはやめよう。
 
 記憶を振り返る場合は、細部すべてが正確ではないことを充分認識したうえで振り返らなければならないと本に書いてあった。
 つまり誰かに昔の出来事や自慢話を聞かされる場合、それがあなたの名誉毀損に関わらない限りは、先方の言質を取ろうと身構えずに聞くのが良いのかも知れない。
 その人にはあなたを騙そうとする意図はなく、ただ自分の脳の語るままを口にしているだけという場合もあるからだ(時間が経てば経つほど事実とのブレは大きくなる)。

 そういうことを踏まえて中島みゆきの「傾斜」という曲を聴くとしっくりくる。特に歌詞の後半部分(暇な方はYou Tube 等で確認して下さい)。

 例え当方に分があると分かっていても、たまには先方の面子を立て聞き役に回るのもよいのでは。世界中コロナや異常気象で鬱陶しいこのご時世に余り正論を貫き通すとかえって疲れるので。