アスンシオンカワムラ新聞

パラグアイで整体治療に携わっています。日々思ったことを綴ります。

施しについて考える

 信号待ちでお金の無心をする人を見かけることがある。人々がどう反応するか見ると、四人に一人の割合で小銭か何がしかを与えている。
 その一方であからさまに前方を向いてシカトしたままという人もいる。殆どの人は首を横に振り NO と言っているようだ。関わりたくないのだろう。

 「人間誰しも見ず知らずの他人にお金を与えたくないものだが、例え断る場合でもしっかり相手の目を見て言うことは、最低限の礼儀だと思う。人間の品格とはそういう事だ」と私。
 するとAさん「中には質の悪い連中もいるので、綺麗事は言ってられない。車の窓を開けて応対するなどもってのほか。あなたもやられた苦い経験があるでしょう。運転席の横にジーっと立たれて中を覗きこまれるのはうんざりするわ」と言った。
 各々視点は異なっているが、本音である。


 場所はどこだったか忘れたが、車で横になって休んでいたら一人の男が近づいてきて金をくれと言われた。パラグアイではよくあることで、まだ30代の頃だ。

 やれやれ面倒くさいなと思いながら小銭を渡した。すると彼は暫くそのコインを手に取って見ていたが、次の瞬間それを車内に投げ返したのだ。
 予想外の行動に呆気に取られたが、老師は飄々と去っていった。
 
 彼は自分の顔すらまともに見ずに雀の涙の小銭を放った若造(私)に「こいつ調子に乗りやがって」と、カチンとキレたのかも知れないし、他に原因があったのかも知れない。
 だが相手が乞食であるとかに関係なく、その人のプライドを理由なく傷つけてしまったことに自己嫌悪に陥り、舌を噛んで死にたくなった(泣)。
 私が先述の自説を頑固に変えないのは、この教訓がたぶんに影響していると思う。
 

f:id:spqr020220:20201112012352j:plain
Avenida España

 
 さて本日家の前でパチパチ手を叩いて呼ぶ人がいるので、出てみると「子供に買う薬代がないので金をくれないか」と。中年の女だった。
 どうも見え透いた嘘の匂いがするし「そもそも何で俺が」というセコい考えも頭をもたげてくる。
 いつもならばお決まりの文句〈今手持ちがないので〉でお引き取り願うところだが、今日に限ってはお布施をタップリさせていただいた(皮肉ではありません)。

 どういう心境の変化かと尋ねられそうだが、実はこの時偶然開いていた『菜根譚』の文面に若干ビビったと言うかオカルト的なものを読み取ったのである。そこには、

「人目につかない場所で徳を積め。恩返しなど期待できない相手のためにこそ、恩を施すべき」とあった。


 一旦手を離れた銭の使い途は分からないが、十中八九薬代ではないだろう(薬は薬でも別のクスリかも知れないが)。
 だがそこまでこちらが気を揉まなくてもよいではないか。脳ミソは他のことに使おう。

 確かに財布も心も幾分軽くなった(笑)。